夏のはじまり

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1. 軋む朝、色彩のないノイズ

意識が覚醒へと向かうその過程は、まるで重油の海から無理やり引き上げられるような不快さを伴っていた。

瞼の裏側で、赤と黒の斑点がチカチカと明滅する。 カーテンの僅かな隙間から侵入した朝陽が、鋭利な刃物となって網膜を執拗に突き刺してくるのだ。俺は喉の奥で獣のような呻き声を漏らし、顔をしかめて寝返りを打った。

シーツの冷たい感触が頬に触れる。だが、それすらも今の俺には鮫肌で擦られているように感じられた。 遠くで雀が囀っている。チュン、チュン、という単調なリズムは、安っぽい電子アラームのように神経を逆撫でし、階下からは食器同士が触れ合う硬質なカチャカチャという音が、鼓膜を直接叩くハンマーのように響いてくる。 そして何より、肋骨という檻の中で勝手に脈打つ自分自身の心臓が、ひどく苛立ったリズムを刻み続けているのが気に食わない。ドク、ドク、と血管を巡る熱い血流が、俺に「起きろ、動け、戦え」と命令しているようで、無性に腹が立った。

俺は舌打ちを一つ、天井の染みに向かって吐き捨てると、鉛のように重い重力を呪いながら上半身を起こした。

洗面台の鏡に向かい、蛇口を捻る。冷水が勢いよく迸り、掌に溜まる。 それを顔面に叩きつけると、物理的な冷気が熱を奪い、ようやく意識のピントが合った。 鏡に映る自分の顔は、相変わらず世界のすべてを敵に回したような不機嫌そのものだ。充血した眼球、吊り上がった眉、への字に結ばれた唇。 だが、これでいい。この睨みつけるような凶悪な眼光こそが、俺が俺という個を保つための武装であり、有象無象を寄せ付けないためのバリケードなのだから。

俺はクローゼットから使い古した黒のトレーニングウェアを引っ張り出し、乱暴に腕を通した。 化学繊維の擦れる音がシュッと鳴り、機能性だけを追求したポリエステルの生地が肌に張り付く。チャックを顎下まで引き上げ、足元には靴底のすり減ったランニングシューズを突っ込む。 手荷物は何も持たない。身一つ、研ぎ澄まされた己の肉体だけが俺の持ち物だ。

玄関のドアノブに手をかけ、一気に回す。金属の冷たさが掌に伝わり、錆びついた蝶番が悲鳴を上げた。 外の世界へと踏み出すその一歩。 その瞬間だった。まるで俺が開けるそのタイミングを、コンマ一秒単位で計測していたかのように、視界の端から派手なピンク色の塊が飛び込んできたのは。

「――っ!?」

幼馴染の御影雛だ。

俺は反射的に体を捻り、防衛本能に従って身構えた。 勢いあまって俺の胴体に抱き着こうとしてきたその質量を、「邪魔だ」と低い声で吐き捨てながら、右腕一本で乱暴に押し退ける。 加減なんてしない。掌が彼女の安っぽいジャージ越しに肩の骨に食い込み、物理的に距離を強制する。肉と肉がぶつかる鈍い音が響き、彼女の体勢が崩れた。

普通の女子なら、その乱暴さに驚いて泣き出しそうな扱いだろう。だが、コイツにはそんな常識は通用しない。

「おっはよー、 勝己ぃ♡今日も早いねぇ」

押し退けられたことなど記憶からデリートしたかのような、脳味噌が砂糖水で溶けそうな明るい声。 鼓膜がビリビリと震えるほどの高い周波数が、朝の冷気を切り裂いて俺の脳髄を犯していく。 俺は完全に無視を決め込み、靴底でアスファルトを削る勢いで踏み込むと、そのまま路上へと走り出した。 だが、背後から軽い足音が、まるで影のように軽快についてくる。気がつけば、いつものように視界の端に彼女が並走していた。

「ねえねえ、昨日のテレビ見た? あの芸人超ウケたんだけどさぁ! あとね、新しいヘアピン買ったんだけど、どうかな? 昨日のよりキラキラしてて可愛くない?」

雛は女独特の甲高い声と、俺に媚びるような甘ったるい猫なで声を器用に使い分けながら、一方的に話し続ける。 中身なんてない。ただの音の羅列だ。意味のある情報など何一つ含まれていない、ただのノイズ。 俺の走るリズム、呼吸のテンポ、それら全てを乱そうとする妨害工作にしか思えない。

もちろん、俺は一言も返事は返さねえ。相槌一つすら打ってやらない。 それでもコイツは話し続けている。息継ぎの間すら惜しむように、次から次へと単語を並べ立て、俺の周りの清浄な空気をその甘ったるい毒気で汚染していく。

クソな会話をドッヂボールに例える奴がいるが、そんな生易しいモンじゃねえ。 こっちは野球の打ちっぱなしに来て、ただひたすらに飛んでくるボールを、バットも持たずにフェンス際で眺めてるだけだ。飛んでくるのはボールですらなく、そこらへんの泥がついた石ころか、噛み終わったガムの屑だ。

何度かペースを上げて、この物理的な距離で振り切ってやろうかと考えた。 俺の爆発的な脚力なら、こんな女を置き去りにすることなど造作もないことだ。地面を蹴り、風を切り、視界から消し去ることは容易い。

……だが、振り切ろうと足に力を込めた瞬間、脳裏にあいつの姿がフラッシュバックする。

あの日、何かが決定的に狂った。 俺が、うっかり口にしてしまった「あの言葉」が、この怪物を生み出したんだ。

脳裏に焼き付いて離れない記憶の断片は、今でも俺の夢見を悪くするに十分なほどの解像度で再生される。

そもそも、昔の御影雛はこんなキャラじゃなかった。 今の媚びへつらうような態度は見る影もなく、アイツは文字通り、この界隈の子供たちの頂点に君臨する「女王様」だったんだ。

人形のように整った顔立ちに、金持ちの親、そして蝶よ花よと育てられた歪んだ自尊心。 幼稚園の頃から、アイツにとって世界は自分のために回る舞台で、周りの人間は自分を引き立てるための舞台装置か、あるいは召使いでしかなかった。

「雛はね、将来アイドルになって、世界中のみんなに愛されるお姫様になるの!」

学校や公園では、いつもそう高らかに宣言していた。 春の陽射しの中で、フリルのついたスカートを翻し、キラキラとした笑顔を振りまくその姿は、確かに子供たちの目を惹きつけた。 男子たちはアイツの笑顔ひとつで言いなりになり、女子たちはその華やかさに憧れて侍女のように付き従う。 俺のことだって、その他大勢の「力の強い便利な護衛」くらいにしか思っていなかったはずだ。特別な感情なんて欠片もなかった。アイツの瞳には、自分自身しか映っていなかったからな。

……いや、そう思っていたかっただけかもしれない。

ふと、あの「事件」の前日、放課後のことが脳裏をよぎる。

そういやぁ、俺の部屋で雛と二人きり、テレビを見ていた時のことだ。 あの日は珍しく、雛の取り巻き連中もいなくて、俺たちはただぼんやりとバラエティ番組を眺めていた。西日が差し込む部屋の中、埃が舞う様子が見えるほど静かだった。

外では「アイドルになる」とふんぞり返っている女王様が、俺の前でだけは違った。 画面の中で、人気店の特集か何かで、ケチャップで猫の顔が描かれたオムライスが映し出されていた時だ。

「わぁ……! 可愛い!」

雛が目を輝かせ、身を乗り出した。 その時の横顔は、取り巻きたちに見せる作り物の笑顔じゃなく、何の陰りもない、ただの無邪気な子供のそれだった。瞳の奥にある光が、純粋な憧れで揺れていた。

「あの猫さん作りたい! 雛ね、アイドルもいいけど……本当は可愛いカフェを開いて、皆にお腹いっぱい食べてもらうのもいいなって思うの。メイドさんの服を着て、いらっしゃいませーって言うの! あの猫さんもメニューに載せたいなぁ」

夢見るように語る声。 「アイドル」という虚像の夢の裏で、俺にだけこっそり見せた、もっと地に足の着いた「カフェ」という等身大の夢。 誰かに媚びるためでも、誰かの上に立つためでもない。ただ「可愛いものが好き」という、年相応の少女の純粋な憧れ。 その時のアイツは本気で楽しそうで、世界が薔薇色に見えているような顔をしていた。頬が上気し、唇が緩んでいた。

「ねえ勝己、作り方教えて? 勝己ならわかるでしょ?」

俺の袖を小さな手で引っ張り、上目遣いでねだってくる。 普段は女王様ぶっているくせに、こういう時だけ俺を頼ってくるその甘えた態度。その体温が袖越しに伝わってくるのが不快だった。

俺の中に、ふと意地悪な感情が湧いた。 「男」の俺に料理を聞くことへの違和感。俺にだけ見せる甘ったれた態度への苛立ち。そして何より、そんな「女の子らしい」会話に付き合わされている自分への気恥ずかしさ。

俺は最強のヒーローを目指しているんだ。ままごと遊びに付き合ってる暇なんてねえ。

「……はぁ? 俺が知るかよ。そんなもん、自分の母親に聞け。俺はヒーローになるための準備で忙しいんだわ」

冷たく突っぱねた。 「母親に聞け」。それは至極真っ当な正論のつもりだった。俺は視線すら合わせず、手元の漫画に目を落とした。

だが、その一言がすべての引き金だった。

もしアイツが、俺のその言葉を真に受けて、本当に母親に聞きに行っていなかったら? そして、台所に立とうとしたところを、あの異常な父親に見咎められていなかったら?

「ヒーローになるための準備」。俺が口にしたその単語が、皮肉にもアイツの運命を歪めるトリガーになったんじゃないか?

嫌な汗が背中を伝う。冷たい雫が、背骨に沿って滑り落ちていく感覚。

その翌日の朝だ。 まだ空が薄暗く、明け方の冷気が窓ガラスを白く曇らせていた時間帯。 けたたましく鳴り響く電話のベルと、それに続いたババアの金切り声に、俺は泥のような眠りから無理やり引きずり出された。

受話器の向こうから聞こえてきたのは、雛の親父の、蛇が湿った肌を這うような粘着質を帯びた声だった。

『おはよう、勝己くん。……実はね、今日から雛がヒーローになるための本格的なトレーニングを始めたんだ』

は? 何言ってんだ、このオッサン。 雛の個性は戦闘向きじゃねえし、本人の性格だって荒事とは無縁のフワフワした花畑みたいなもんだ。それがヒーロー? 寝言は寝て言え。

だが、続く言葉が俺の思考を凍りつかせた。

『これから毎日、君のランニングコースを走らせることにした。……そこで、頼みがあるんだが。サボらないように、見張っててくれないか』

「見張る」という単語の異様さ。 それは親が子に向ける言葉じゃねえ。看守が囚人に向ける言葉だ。監視、管理、拘束。そんな響きが含まれていた。

直感が告げていた。 絶対、なにかしでかしたに違いない、と。

受話器を置いてからも、俺の胸騒ぎは収まらなかった。心臓の裏側を冷たい手で撫でられているような感覚。内臓がせり上がるような不安。

俺はトレーニングウェアに着替えると、逃げるように玄関へ向かった。 ドアノブに手をかける。金属の冷たさが掌に突き刺さる。 開けたくなかった。このドアの向こうに待っている現実を、直視したくなかった。

それでも、俺は意を決してノブを回した。

ドアが開き、朝の冷たい空気が流れ込んでくる。 俺は勢いよく外へ踏み出し――そして、息を呑んだ。

そこに、雛がいた。

うちの家の前より少し遠く、路地の角を曲がってきたところだった。 走っている、というよりは、何かから逃げているような足取りだった。 呼吸は荒く、肩が大きく上下している。足音が不規則で、リズムが狂っている。

遠目でもわかった。その異様さが。

いつも綺麗に手入れされ、良い匂いのするシャンプーで洗われていた、自慢の長いポニーテールがない。 代わりに、素人がハサミで適当に切り刻んだような、不揃いで惨めな短髪が、風に揺れることもなく頭に張り付いている。 まるで雑草を刈り取った後の芝生のように、無残な有様だった。

近づくにつれて、細部の情報が網膜に焼き付けられていく。

白い肌には、いくつもの青痣が浮いていた。二の腕に、ふくらはぎに。 まるで何かに強く掴まれたような指の跡や、硬いもので打たれたような赤黒い痕跡。 それを隠そうともせず、サイズの合っていない男物のジャージを着せられている。ぶかぶかの袖から覗く手首は、折れそうなほど細かった。

「うっ、ぐすっ……うぅ……」

雛は泣いていた。 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、ヒックヒックと過呼吸気味に息を漏らしながら、それでも親父への恐怖心だけで足を動かしていた。 喉の奥から漏れる嗚咽は、言葉にならず、ただの音として空気に溶けていく。

かつては「お姫様」だの「アイドルになりたい」だのと周りにチヤホヤされて、この世界は自分中心に回ってると勘違いしていた、あの能天気な裸の女王様。 自分は愛されるために生まれてきたと信じて疑わなかった、幸福な馬鹿。

その成れの果てが、これだ。

俺と目が合った瞬間、雛の顔が引きつった。 恐怖か、羞恥か、それとも助けを求めるような縋る目か。 その瞳孔は開ききり、焦点が定まっていないようだった。

俺は一瞬、言葉を失って立ち尽くした。 かけるべき言葉が見つからない。 「どうした」と聞くのも白々しい。「大丈夫か」なんて聞ける状態じゃない。

ただ、その泥だらけの姿を見たとき、俺の中で何かが、音を立てて少しだけズレた気がした。

同情じゃない。そんな甘っちょろい、綺麗な感情じゃない。 ただ、吐き気がするほどの不快感と、得体の知れない罪悪感が、胃の腑でどす黒く渦巻いただけだ。 喉元まで酸っぱい液がこみ上げてくるのを感じた。

関わるんじゃなかった。 最初から、徹底的に無視しておけばよかったんだ。 あの時、「母親に聞け」なんて余計なアドバイスをしなければ。

俺は逃げるように視線を外し、自分のランニングコースへと足を踏み出した。

背後から、ズルズルと靴を引きずるような音がついてくる。 アスファルトを擦る不快な音。 拒絶しても、無視しても、その音は俺の影のように張り付いて離れない。

俺たちのランニングが始まった。 だが、それはランニングなんて呼べる代物じゃなかった。処刑場への行進のようだった。

雛は体力がなく、すぐに息が上がって足がもつれる。そのたびに立ち止まり、膝に手をついて激しく咳き込む。 「げほっ、ごほっ……!」という汚い咳の音が、静かな朝の住宅街に響く。 後ろからズルズルと靴を引きずる音が、俺の神経を逆撫でする。

「うっ……はぁ、はぁ……っ!」

ついに限界が来たのか、雛が濡れたアスファルトの上に無様にへたり込んだ。 膝から崩れ落ち、手をつく。

「もう、無理ぃ……走れないよぉ……」

弱音を吐き、その場にうずくまる雛。

俺は舌打ちをして立ち止まり、振り返った。 親父への怒りもあったが、それ以上に、今まで散々偉そうにしていた「女王様」が、こうもあっけなく折れて、無様に泣き喚いている姿が気に食わなかった。 地面に這いつくばるその姿は、虫の死骸のように惨めだった。

「おい、立てよ。こんなとこで寝てんじゃねーよ」

俺は冷たく見下ろした。

「だってぇ……足痛いし、苦しいし……パパが怖いよぉ……」

雛は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、助けを求めるように俺に手を伸ばしてきた。 泥で汚れた指先が、俺の服を掴もうと空を掻く。 今までなら、男子たちはこぞって手を貸しただろう。「大丈夫?」と優しく声をかけ、荷物を持ってやっただろう。

だが俺は、その手を容赦なく払いのけた。

パシッ、という乾いた音が朝の路地に響く。皮膚と皮膚が弾ける音。

「甘ったれんな。テメェが弱ェから、あんなクソ親父になめられんだよ」

俺の言葉に、雛がビクリと肩を震わせた。伸ばされた手が行き場を失って空を彷徨う。

「泣いて解決すると思ってんのか? 誰かが助けてくれると思ってんのか? 今までの取り巻き連中はどうした。誰もいねーじゃねえか」

現実は残酷だ。女王の座から転落し、髪を切り落とされた惨めな姿の女に、群がる羽虫はいなくなる。 世界は冷酷で、力のない奴には居場所なんてないんだ。

雛は絶望したように顔を歪め、地面に突っ伏してさらに激しく泣き始めた。 「うあぁぁーん!」という子供じみた泣き声は、ただの不快なノイズとなって俺の耳障りな朝をさらに汚染していく。

うるせえ。本当にうるせえ。 このまま置いていってやりたかった。だが、監視役を命じられている以上、コイツが帰らなければ俺もあのババアに文句を言われる。

俺は深いため息をつくと、しゃがみ込んで雛の顔を覗き込んだ。 涙で腫れ上がった瞼、赤くなった鼻。醜悪だ。

「おい、よく聞け」

低い声でドスを利かせると、雛がヒックと息を止めて、恐る恐る俺を見た。

「俺は一人でも最強のヒーローになる。テメェみたいな足手まといなんざ、本来なら視界に入れる価値もねえ」

俺は親指で自分自身を指した。揺るぎない自信と、圧倒的な未来への確信を込めて。 俺の目を見ていろ、と言わんばかりに睨みつける。

「だがな、もしテメェが死に物狂いで俺の背中に食らいついてこれたら……」

気まぐれだった。 ただの思いつき。あるいは、泣き止まない子供に飴玉を与えるような、安易な提案。 あるいは、ここまで惨めに全てを奪われた幼馴染に対する、俺なりの歪んだ憐憫だったのかもしれない。

俺はニヤリと、凶悪な笑みを浮かべて言った。

「将来、俺の『サイドキック』にしてやらねーこともねえ」

その瞬間、世界が止まった気がした。 風の音も、雀の声も消え失せた。

雛の瞳から、涙がピタリと止まった。 大きく見開かれたその目は、瞬きもせずに俺を凝視していた。 その瞳の奥で、何かが着火したのが見えた。狂気という名の火種が。

「……サイド、キック……?」

震える唇が、その単語を反芻する。まるで呪文のように。

「ああ。俺の隣に立つことを許される、唯一の相棒だ。まあ、今のザマじゃ一生無理だろうがな」

俺は鼻で笑い、立ち上がった。「ついて来れるもんなら来やがれ」と背中を向けて、再び走り出した。

どうせ無理だと思った。諦めて帰るか、また泣き出すかだと思った。

だが。

背後から聞こえてきたのは、泣き声じゃなかった。 ズルッ、ズルッという、地面を這ってでも進もうとする執念の音。そして、獣のような荒い呼吸音。

俺が振り返ると、そこには信じられない光景があった。

雛が走っていた。 涙も鼻水も袖口で乱暴に拭い去り、充血した目で、俺の背中だけを一点に見つめて。

その瞳には、もう「女王」の驕りも、「被害者」の弱さもなかった。

あったのは、狂気じみた「執着」の炎だけ。 ドロドロとした暗い情熱が、その小さな体の中で渦巻いていた。

『サイドキック』。 全てを失い、親にも裏切られ、孤独の淵に叩き落された彼女にとって、俺が気まぐれで垂らしたその蜘蛛の糸は、唯一の救いであり、新たな「生きる意味」になってしまったんだ。

女王であることをやめ、俺という王に仕える従者になることを、アイツはその瞬間、魂に刻み込んだ。 自分の自我を殺し、俺の一部になることを選んだのだ。

あれから数年。

それが今じゃ、このザマだ。

俺は走りながら、横目でチラリと隣を見る。

「勝己ぃ、今のペースちょっと速くない? でも雛、全然平気だよ! だって勝己のサイドキックになるんだもんね!」

俺のペースに合わせて必死に食らいついてくるその横顔には、玉のような汗が光り、口元には恍惚とした笑みが張り付いている。 筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、脳内麻薬がそれを麻痺させているかのような、不自然な高揚感。

あいつが外で語っていた「アイドルになりたい」という煌びやかな夢も、俺にだけ語ってくれた「カフェを開きたい」というささやかな夢も、あの日の朝、切り落とされた髪と一緒に排水溝へ流されたんだ。

今、俺の隣で笑っているのは、夢を殺された抜け殻なんかじゃない。 中身を「勝己への執着」という名の猛毒で満たし、俺との約束だけを燃料に駆動する、永久機関のような怪物だ。

俺があんな約束をしなけりゃ、アイツはただの可哀想な被害者で終われたのに。 俺が、アイツの人生を決定的に狂わせちまった。

そう思うと、並走する足音が、まるで俺を地獄へ引きずり込もうとするカウントダウンのように聞こえてならなかった。 タッタッタッ、という乾いた音が、俺の罪悪感をリズムよく叩き続ける。

その後、無事にランニングコースを走り終え、家の前にたどり着く。心拍数は上がっているが、不快感は少しも減っていない。むしろ、内臓の奥に鉛が溜まったように重い。

「じゃあ雛、一旦お家に帰るねぇ。雛がいなくて寂しく……」

幼馴染が最後まで言い終える前に、俺は態と大きな音を出して鉄製の門扉を閉め、さらに玄関のドアを叩きつけるように閉める。

ガンッ!

という硬質な金属音が朝の空気に響き渡り、彼女の声を遮断する。 鉄の板一枚隔てた向こう側に、あの怪物を封じ込める。

俺の情けは既に使い切った後だ、バーーーカ。二度と話しかけてくるんじゃねえ。

それは、ごく当たり前の毎日の繰り返しだと思っていた。この不快だが予測可能な日常が、今日も明日も続くと信じて疑わなかった。

そのドアの向こうで待ち受けている現実を知るまでは。

2. 灰色の食卓、凍てついた唐揚げ

「今帰った」

短く吐き捨てるように言い放ち、俺はドスドスと踵で床を鳴らしながらリビングへと向かった。 いつもなら、この時間は戦場だ。 キッチンからは味噌汁の出汁が煮詰まる匂いと、焦げたトーストの香ばしい匂いが混ざり合い、テレビからはニュースキャスターの無機質な声、そしてババアのヒステリックな怒鳴り声と親父の弱々しい挨拶がセットになって鼓膜を叩く。 それが俺の知る「朝」という名のルーチンだった。

だが、今日は違った。

リビングへのドアを開けた瞬間、肌に触れた空気が、まるで何日も締め切った空き家のように澱んでいた。 親父とババアの食事はすでに終わっているようで、テーブルの上には片付けられていない食器が、墓標のように乱雑に残されていた。 いつもなら俺が帰宅するタイミングを見計らって起き出し、バタバタと慌ただしく動き回っているはずの二人が、今日は石像のように静止している。

明らかに様子がおかしい。 空気の密度が違う。 普段の日常とは異なる、何かひどく面倒で粘着質なトラブルの予感を肌で察知して、俺は無意識のうちに眉間に深い皺を寄せた。

「勝己、さっさとご飯を食べたら車に乗りな」

シンクに向かい、背中を向けたまま洗い物をしているババアが言った。 声が硬い。いつものようなエネルギーに満ちた怒鳴り声ではなく、何か重たいものを喉の奥で無理やり押し殺しているような、低く掠れたトーンだった。

「は? どういうことか事情を説明しろよ」

俺は説明が続かないことへの苛立ちを隠そうともせず、舌打ちを一つ鳴らした。 足で蹴るように椅子を引き、乱暴に座り込む。木製の椅子が床を擦り、ギギィという不快な悲鳴を上げた。

親父がタイミングを見計らったように、俺の分の飯を運んでくる。 白米、味噌汁、そして皿に乗った焼きジャケと卵焼き、それに唐揚げ。 一見すれば豪華な朝食に見える。だが、俺の目は誤魔化されない。 この唐揚げの衣の、不自然なほど均一すぎる粒立ちと、人工的なきつね色。十中八九、冷凍食品だ。 いつもなら手作りへの拘りをうるさく説くババアが、こんな手抜きをしやがって。

俺は言葉にならない苛立ちをぶつけるように、箸を勢いよく唐揚げに突き刺した。 ガリッ、という硬い感触が手に伝わる。

「勝己、箸の使い方が汚い! もうちょっとお行儀よくしなさい!」

背後からババアの金切り声が飛んでくる。 だが、そこにはいつもの覇気がない。ただの条件反射のような叱責だ。 俺はそれを右から左へと聞き流し、硬い唐揚げにかぶりついた。

……不味い。 予想通りだ。衣ばかりが分厚くて、中の肉は紙のように薄い。 それに、保存料特有のケミカルな後味と、舌が痺れるほど過剰に効かせた胡椒の刺激が口内を蹂躙する。 肉汁なんてものは存在せず、パサパサとした繊維質の食感が広がるだけだ。 絶対に味覚音痴の人間が開発したに違いない。こんな塩分過多のゴミを朝から食わせるとは、俺を早死にさせる気か。

文句の一つでも垂れてやろうと口を開きかけた時、親父がおずおずと口を開いた。

「実はね、キミの大叔母さんが亡くなったから、今から葬式に行くんだ」

余りにも不機嫌オーラを撒き散らす俺を見兼ねたのか、親父の声は腫れ物に触るように震えていた。 その気弱な態度。俺の顔色を伺うような上目遣い。 何もかもがムカつく。

俺は親父を睨みつけ、近くにあった麦茶のコップを乱暴に掴むと、一気に喉の奥へ流し込んだ。 冷たい液体が食道を滑り落ちていくが、腹の底で煮えくり返る熱を冷ますには程遠い。

ガンッ!

空になったコップをテーブルに叩きつけ、威嚇音を鳴らす。 この麦茶もだ。煮出しもせずに水道水をそのまま使いやがったな。カルキ臭さが鼻につく。

「誰、そいつ。俺は知らねーけど」

俺は茶碗を片手に、親父を冷たく見据えた。 大叔母? 聞いたこともない。 俺の貴重な休日のトレーニング時間を潰し、不味い飯を食わされ、わざわざ出向くほどの価値がある人間なのか。

親父は困ったように眉を八の字に下げ、肩をすくめながら頬をポリポリと掻いた。

「子供の頃に一度会ったきりだからね、無理もないかな。お母さんの遠い親戚で、ずっと南の島に住んでた人なんだ」

「ハッ、知らねぇ親戚の葬式ごっこに付き合わせんじゃねぇよ。俺は忙しいんだ、暇じゃねぇんだわ」

俺は箸を投げ出すように置くと、椅子を蹴って立ち上がった。 こんな茶番に付き合っている暇はない。俺には俺の計画がある。顔も覚えていない老人の死のために、俺の時間をドブに捨てるなんて御免だ。

だが、その背中に突き刺さる殺気。 ババアの鋭い視線が、俺の後頭部を物理的に貫いていた。

振り返らなくても分かる。 その目は「逃がさない」「逆らわせない」「つべこべ言わずに行け」と雄弁に語っている。 言葉よりも重く、有無を言わせない圧力が、俺の足を縫い止めた。

チッ。どうやら拒否権はないらしい。

俺は深く、重く、肺の底に溜まった澱みを吐き出すようなため息をつき、湿った空気が漂うリビングを見回した。 これから始まるであろう、退屈で、長くて、線香臭い時間を想像するだけで、胃液が逆流しそうだった。

3. 遠ざかる景色、途切れた「未来」

ババアに襟首を掴まれて引きずられるようにして、俺は自家用車の後部座席に押し込まれた。

車内には、芳香剤のきつい匂いが充満していた。 人工的なシトラスの香り。 安っぽい化学物質の匂いが鼻腔の粘膜に張り付き、俺の不快指数をレッドゾーンまで引き上げる。 窓を開けて換気しようとスイッチに手を伸ばしたが、反応がない。チャイルドロックがかかっている。クソが、俺を赤ん坊扱いするな。

運転席に座った親父は、バックミラー越しに俺の機嫌を取ろうと必死だった。

「勝己くん、何か好きなものを買ってあげるよ。サービスエリアでアイスでもどうかな?」 「今日は特別なお休みだと思ってさ、楽しもうよ。景色が綺麗な島なんてめったに行ける機会がないよ」

アクセルを踏む足よりも口の方が動いている。 その軽薄な慰めが、逆に俺の神経を逆撫ですることに気づいていない鈍感さが腹立たしい。

俺が黙殺して睨みつけていると、助手席のババアが「甘やかさないの!」と鋭く一喝した。 その一言で親父はシュンと縮こまる。 くだらねえ。いつもの茶番だ。

俺は苛立ちを隠さないまま、窓の外へ視線を投げた。 流れる景色の中に、見知った顔があった。

いつもつるんでいる金魚のフンどもと一緒に、雛とデクが登校している姿だ。

一瞬だけ視界をよぎった雛は、頬を大きく膨らませて露骨に不機嫌そうだった。 俺がいないからだろう。あいつにとっての「勝己成分」が不足していることによる禁断症状か。 そんな雛の横で、デクが困ったように眉を下げて、ヘラヘラと笑いながら何か話しかけている。 ご機嫌取りだ。あいつはいつもそうだ。人の顔色ばかり伺って、自分の意思を持たずにその場をやり過ごそうとする。

その姿を見ていると、ふと、今の車内での俺と親父の状況が重なって見えた。

デクや親父にご機嫌取りをさせてふんぞり返る、あの我儘女。 そして今、不機嫌を撒き散らして親父に気を使わせている俺。

……まんまじゃねーか。

あんな寄生虫みたいな女と同類になんて、なってたまるか。 自分の機嫌くらい自分で取れる。俺はガキじゃねえ。

俺は舌打ちをし、少しだけ姿勢を崩してシートの奥深くに沈み込んだ。 いつまで腹を立てても、このムカつく密室からは出られないことは、俺が一番よく理解している。

「……今から行く島ってそんなにすげェとこなんか?」

重苦しい沈黙を破るために、俺が投げやりに問いかけると、ババアがパッと食いつくように後ろを振り向いた。 その瞳には、少しだけ安堵の色が浮かんでいた。

「えぇ、アンタもきっと気に入るわよ! 私の生まれ故郷なの」 「私のおばあちゃんの姉が買った家でね、当時学生結婚をして途方に暮れてたおばあちゃん夫婦をお姉さんが引き取って、子供も纏めて育てたのよ。……言わば、私の育ての親みたいな人よ」

ババアの声が少し柔らかくなる。 昔話をする時の、あの独特の湿り気を帯びた、粘度のある声だ。

「勝己くんの誕生日になったら、毎年オールマイトの人形を送ってくれる人がいるだろ? あの人だよ」

親父が補足するように言った。

その言葉に、俺は思わず目を見開いた。 心臓がドクンと大きく跳ね、血流が一瞬止まったような感覚に襲われる。

嫌ってほど覚えがあった。 物心ついた頃から俺の部屋の棚を侵食し続けている、様々なコスチュームを身にまとったオールマイトのぬいぐるみ。 市販の限定品でもない、けれど手作りとは思えないほどクオリティが高く、そして何より「愛」がこもっている人形たち。

俺はずっと、くれたのは「こっちのばあちゃん」だと思っていた。だから、そいつが大叔母だってことは知らなかった。

だって、つい最近だぞ。俺の誕生日の日に電話したばっかりじゃねえか。

あの時は、受話器が震えるくらいデカい声で、すげー元気に喋ってたじゃねえか。

……嘘だろ、絶対。

『次はどんなオールマイトがいいかねぇ、勝己ちゃん。イギリスの英国紳士風なんてどうだい?』 『あぁ? なんだそりゃ。オールマイトに名探偵のコスプレでもさせんのか?』 『それもいいかもねぇ! でもそれは再来年にしようか。次の年も楽しみだね』

あのしゃがれた、でも太陽みたいに陽気な声が、脳内で鮮明に再生される。 「次の年も楽しみだね」って言ったじゃねえか。 再来年の話までしてたじゃねえか。 未来の話をあんなに楽しそうに語っていた人間が、なんで突然「過去」になるんだよ。

現実感がなさ過ぎて、言葉が出なかった。喉の奥に、乾いたスポンジを詰め込まれたような息苦しさがある。

きっと、あの島にある家に電話すりゃ、またあの呑気な声で『おや、勝己ちゃんかい?』って俺をちゃん付けで呼ぶ元気なババアが出迎えてくれる。 そう思えてならなかった。 死んだなんて、あまりにもタチの悪い冗談だ。

「……だから、例え勝己も会ったことが無くても行かなきゃいけないのよ」

ババアの声が、湿っぽく沈んだ。いつもの強気なババアらしくない、弱々しい響き。

俺は窓の外に視線を戻し、小さく悪態をついた。

「……この前まで元気にしてたじゃねえか。……っつか、そんな大切なことならもっと早めに言えよ」 「だっていきなり言っても驚くでしょ? それに、アンタにとってはぬいぐるみを貰うだけの関係でしょ?」 「……テメェと違って、俺は毎年礼を言うために電話しとったわ。バーカ」 「……そうだったの。知らなかったわ」

ババアが少し驚いたように目を丸くし、それからウィンドウ越しに微かに笑ったのが見えた。 その笑顔は、どこか寂しそうで、でも誇らしげでもあった。

車はスピードを上げ、田園風景を置き去りにしていく。 緑色の景色が、ただの色の帯になって後ろへ流れていく。 俺は膝の上で拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込む鋭い痛みだけが、この浮ついた現実を繋ぎ止めていた。

あの「英国紳士風オールマイト」は、もう一生届かねえってことかよ。 結構、楽しみにしてたのに。クソが。

窓を見つめ続けると、あっという間に学校の前にたどり着いて、そして一瞬で通り抜けていく。 剥げた校長が笑顔で生徒を出迎えている、そんなありきたりな毎日。 こんなにも、周りは何も変わってねーのに、俺だけが日常から弾き出されていく。 世界は平然と回り続けているのに、俺の中の何かが欠け落ちた。 でも、たった一年に一回、電話をするだけの相手が消えた。ただそれだけだ。

……それだけのはずだった。

みっともねぇ話だが、実際俺にとってあの大叔母は、一番オールマイトの話が盛り上がる「親友」みたいな相手だったんだ。 デク達だと「あの日のオールマイトカッコよかった」で終わる薄っぺらい話が、あのババア相手だと「どの場所で起こった事件」だの「それなら美味い料亭があるから、お昼食べてそう」だの、話がポンポンと広がっていく。 ただのファン話じゃない、もっと深い、人間としてのオールマイトへの愛と考察があった。

女は話をダラダラと続ける生き物だし、あのババアもだらだらと話が続くほうだった。 でも、いくら続いても嫌じゃなかった。むしろ、もっと話していたかった。

いつも、ババアの長話を聞いて、向こうの家族から怒られて渋々電話を切る。それまでがいつものコースだった。 こんなことなら、一年に一回とは言わず、もうちょっと電話をしとけばよかった。 会いに行けばよかった。

今更そんなことを考えても、もう遅ぇのに。 後悔は、いつだって手遅れになってから、喉の奥から苦い味と共にやってくる。

そんなグルグルとした思考の渦に沈んでいるうちに、駅に到着した。

言われるがまま車を降りて、妙に急かすババアの後を追うように券売機まで走って3人ぶんのチケットを買う。 生まれて初めて乗る新幹線。実際改札に並んでみると、いつもの電車と対して変わらなかった。 自動改札の無機質な機械音も、人々のざわめきも、何もかもが拍子抜けするほど普通だ。

ババア達の後を追って自由席に座る。もちろん窓側だ。 つっても、窓から見える景色は車の比にならねえくらい早すぎて、何も見えなかった。 電柱も家も山も、すべてが引き伸ばされた絵の具のように溶けていく。

次の駅につくまで一瞬のように感じた。 それならいつものようにスマホでオールマイトのビデオでも見りゃいいのはわかってる。 かと言って、周りが気にならねえと言ったら嘘になる。

新幹線の座席は狭くて硬いし、前の席のガキが菓子を零して怒鳴る親の声や泣く声、斜め前から聞こえるサラリーマンの豚みてェな鼾がきつくてちっとも休めやしねェ。 他人の生活音、体臭、衣擦れの音。それら全てが俺の神経をヤスリのように削っていく。 この車両にいる全員を爆破してやりたい。そんな破壊的な衝動を抑え込みながら、俺はただじっと耐えていた。

親父も煩かったらしく、ヘッドフォンをつけて音楽を聞いていた。現実逃避だ。

「勝己くんも聞くかい?」

薦められはしたが、そういう気分にならねえし、何より片耳渡すことで親父にもあの音が聞こえる。俺の聖域に入り込まれるのは御免だ。

「別に、要らね」

そう俺が気を使ったらババアが「あ、じゃあ私が聞きたい」と言って片耳借りてった。 ちったぁ気ィ使えや。俺の気遣いを平気で踏みにじりやがって。

苛立ちをぶつける場所もなく、ただただ俺は毒を撒き散らしながら、この寿司詰めの鉄の箱の中で耐え続けた。 目的地に近づくにつれて、俺の中の空虚な穴が、少しずつ広がっていくような気がした。 あの人形の笑顔を思い出すたびに、胸の奥がきしむ音が聞こえるようだった。

4. 境界線の向こう側

新幹線という銀色の弾丸から吐き出され、さらに錆びついたバスに揺られること一時間。俺たちがようやく辿り着いたのは、本土の盲腸のような場所にへばりつく、最果てのフェリー乗り場だった。

バスの古びたステップを降りた瞬間、世界の手触りが変わったのが分かった。

鼓膜を圧迫するような蝉時雨とともに、水分をたっぷりと孕んだ重たい大気が、全身にまとわりついてくる。それは都会の乾いた熱気とは違う、もっと有機的で、生臭い、生き物の体温のような熱だった。

海からの風が、べとりと頬を撫でていく。

アスファルトの照り返しは凶暴なまでに強烈で、視界の端がぐにゃりと歪む。蜃気楼が揺らぐその向こう側に、油と潮の匂いが染み付いた港の風景が、彩度の低い絵画のように広がっていた。

俺にとっては完全に未知の領域だ。

いつもなら、初めて見る景色や得体の知れない乗り物に、胸の奥で何かが騒いだはずだった。クソナードや他の連中に、「あそこはこうだった」「あんなモンがあった」とマウントを取るためのネタ探しに、鷹のような目を光らせていたに違いない。

だが、今日ばかりはそんな気分にはなれなかった。

網膜に映る景色はどれも、どこか薄い膜が張ったように現実感を欠いている。まるで、ピントの合っていない古いフィルム映画を見せられているようだ。

「勝己くん、少し時間があるから、何か飲み物でも買おうか」

親父の声が、熱気の中で柔らかく響く。

親父が指差した先には、港には不釣り合いな小洒落たカフェと、その横に鎮座する、時代から取り残されたような個人商店風のコンビニがあった。

カフェの方は、ウッドデッキに白いパラソルを広げ、いかにも観光客向けといった安っぽいリゾート感を演出している。黒板にチョークで書かれた看板には、『インスタ映え間違いなし! 島の花入りレインボークリームソーダ』なんていう、頭の悪そうなキャッチコピーが踊っていた。

「勝己くん、あっちのカフェもあるよ。雛ちゃんが好きそうなのが売ってるね」

親父が努めて明るい声を出して、カフェの方を勧めてくる。その笑顔の端には、無理に作った皺が刻まれているのが見えた。

俺は看板の写真を見ただけで、鼻で笑った。

毒々しいシロップで色をつけただけの砂糖水に、食えもしない花を死骸のように浮かべて、馬鹿みてえに高い値を付けてやがる。中身のない、上辺だけの甘さ。今の俺たちが置かれている状況とは、対極にある代物だ。

「……要らね。あんなモン、砂糖と着色料の塊だろ」

「あはは……手厳しいね。じゃあ、こっちにしようか」

親父は困ったように眉を下げると、俺の背中を軽く押した。

俺たちは隣の薄暗いコンビニに入った。店内の冷房も効きが悪く、生温い空気が淀んでいる。ブーンという低い音を立てる冷蔵庫から、俺はコーラとソーダアイスを無造作に掴み出した。親父は微糖の缶コーヒーを選んだ。

会計を済ませて外に出ると、再び強烈な日差しが襲いかかり、アイスの袋を瞬く間に溶かしにかかる。

先にチケットを買っていたババアと合流し、フェリーに乗るための列に並んだ。

ババアは何も言わずに、ただじっと海を眺めていた。

その背中は、俺の知っている「爆豪光己」のものより、二回りは小さく見えた。潮風に煽られたプラチナブロンドの髪が頬に張り付いても、それを直そうともしない。視線の先にあるのは海ではなく、その向こうにある過去の記憶なのかもしれない。

今日、親父がいつも以上に喋り続けているのは、それだけババアが無口だからだ。沈黙という空白を必死に言葉で埋めようとする親父の優しさが、今は少しだけ痛々しく、そして煩わしかった。

『間もなく、乗船を開始いたします』

やがて、スピーカーから割れたアナウンスが流れ、列がずるずると動き出した。

巨大な鉄の塊であるフェリーが、大きな口を開けて待っている。俺たちはその腹の中へと、一粒の餌のように飲み込まれていく。足の裏から、ドッドッドッというエンジンの重低音が伝わってくる。まるで巨大な心臓の上を歩いている気分だ。

船内に入ると、特有の油の匂いが鼻をついた。

「私、ちょっと風に当たってくるわ」

ババアはそれだけ短く言い残すと、俺たちの返事も待たずに、二階のテラス席へと続く階段を上がっていった。その足取りは迷いがなく、それでいて、誰の侵入も許さない拒絶の空気を纏っていた。

俺も無意識について行こうとしたが、親父の大きな手が俺の肩を掴んだ。

「勝己くん」

親父は首を横に振り、三階の方を指差した。

「ここのうどんが美味しいんだよ。ちょっと食べに行こうか」

「……は? 今から飯かよ」

「いいじゃないか。船旅の醍醐味だよ」

親父はそう言って、少し強引に俺の背中を押した。その手のひらは温かいが、どこか切羽詰まったような力が込められていた。

三階の小さな食堂スペースは、昭和の時代から時が止まったような空間だった。

煤けた壁、色の剥げたプラスチックの食券機、パイプ椅子、そして漂う濃密な出汁の匂い。

メニューは潔いほどに少ない。「かけうどん」と「月見うどん」、あとはラップに包まれたおにぎり程度だ。ま、揺れる船の上で凝った料理なんて出せるわけがねえか。

「月見二つ」

親父が慣れた手つきで小銭を入れ、食券を買う。それをカウンターの中にいる無精髭のオヤジに渡す。

「アイツのぶんは?」

俺が顎で下の階をしゃくると、親父は眉尻を下げて、寂しそうに笑った。

「今はそっとしとこう。光己さん、ああ見えて今は誰とも話したくない気分だろうから」

それだけ言って、親父はコンビニで買った缶コーヒーのプルタブを開けた。プシュッ、という乾いた音が、静かな船内に場違いなほど大きく響く。

俺も、少し溶けかかったソーダアイスの袋を破った。甘ったるい氷の塊を口に放り込む。冷たさが頭にキーンと響き、こめかみの血管が収縮する。だが、今の俺にはその暴力的な刺激が心地よかった。思考を麻痺させてくれる気がしたからだ。

数分もしないうちに、「お待ちどう」と枯れた声がかかる。

プラスチックの安っぽい丼に入れられたうどんが二つ、湯気を立てていた。

透き通った黄金色の出汁に、少し太めの真っ白なうどん。そして真ん中には、鮮やかなオレンジ色の黄身を持つ生卵が落とされている。ネギと天かすが散らされているだけの、飾り気のない一杯だ。

湯気が立ち上り、俺の顔を包み込む。イリコの香りが鼻腔をくすぐり、空腹を刺激するというよりは、どこか懐かしい記憶を呼び覚ますような匂いだ。

「いただきます」

親父に倣って手を合わせ、割り箸を割る。パキン、という音が小気味よい。

麺をすくい上げ、口に運ぶ。

……美味い。

腰のある洗練された麺というよりは、少し柔らかめの、優しい食感だ。噛む必要すらないほど、するりと喉を通っていく。

だが、出汁が効いている。

強烈なイリコの風味と、少し強めの塩気。それが汗をかいて渇いた体に、水が砂に吸い込まれるように染み渡っていく。

高級な味じゃない。どこにでもある、港の立ち食いうどんの味だ。

なのに、なんでだろうな。無性に美味いと感じるのは。

窓の外には、どこまでも続く青い海と空。エンジンの微細な振動が、ゆりかごのように体を揺らす。

これがただの旅行なら、俺は今頃「うめぇ!」と大声を出して、親父の皿からおにぎりまで奪って食っていただろう。

でも今は、ただ黙々と麺をすすることしかできない。喉を通る熱い塊が、俺の中にある正体不明の空虚さを、少しだけ埋めてくれる気がした。

生卵を箸で突く。

ぷつり、と膜が破れ、黄金色の黄身がとろりと流れ出す。白いうどんに絡みつくその濃厚な色彩を、俺は夢中で啜り込んだ。

俺は、うどんを食い終えると、残った汁まで飲み干した。丼の底に残った天かすの最後の一粒まで、胃の中に流し込む。

「美味しかったかい?」

親父が優しい目で俺を見ていた。

「……おう、意外と悪くねェな」

「……良かった。楽しんでもらえて」

親父はそう言うと、嬉しそうに、けれどどこか硝子細工のように儚げに笑った。その笑顔を見て、俺は初めて、親父もまた何かを耐えているのだと気づいた。

「食ったなら行くぞ。風、当たりてえ」

俺は照れ隠しのようにぶっきらぼうに言うと、食器を返却口へと運んだ。

この後の甲板で、俺は親父の口から、今まで知らなかった話を聞くことになる。

それは、俺の中にあった「強い爆豪勝己」という存在のルーツに関わる、古くて優しい記憶の物語だった。

食後の腹ごなしにと、俺たちは重たい鉄の扉を押し開けて、甲板へと出た。

途端に、暴力的な風が全身を叩きつける。 手すりに寄りかかると、フェリーが切り裂いた海面が、白波を荒々しく立てて後方へと猛スピードで流れていくのが見えた。足元から伝わるエンジンの轟音と、耳元で唸る風の音が混ざり合い、世界中の音を遮断するかのように荒れ狂っている。

口の中に入り込んだ潮の味が、さっき食べたうどんの優しい後味を上書きしていく。

「光己さんと二人きりだとね……たぶん、会話が続かなくて辛かったんだ」

親父が海を見つめたまま、独り言のように呟いた。 強風に千切れ飛びそうなほど小さな声だったが、不思議と俺の耳には、波の音よりもはっきりと届いた。

「だから、勝己くんに無理を言って着いてきてもらった。……少し、後ろめたかったんだよ。受験勉強で忙しい時期なのにね」

親父の横顔は、風に髪を乱されながらも、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。だがその眉間には、消えない罪悪感のような陰が落ちている。 俺を「緩衝材」として利用したことへの謝罪。そんなこと、今の今まで気にしたこともなかったが、親父はずっと気に病んでいたらしい。

「あのばあちゃんと、会ったことあるのか?」

俺は錆びついた手すりを強く握りしめながら、わざと話題を逸らすように尋ねた。鉄の冷たさが掌に食い込む。

「うん、もちろん。……勝己くんが生まれたときに、見せに行ったのが最後かな」

親父が懐かしそうに目を細める。 その瞳の焦点は、目の前の水平線ではなく、もっと遠い、俺の知らない過去の景色に合わされているようだった。

「あの人、とても喜んでたよ。本当に」

風の音が、一瞬だけ止んだ気がした。

「あの時の光己さんは、ずーっと嬉しそうに喋りっぱなしでさ。『この子は強い子になる』『私が保証するよ』って。シワシワの手で勝己くんの頬を撫でながら、ずっと赤ん坊の勝己くんに話しかけてたんだよ」

そう言って、親父はふっと視線を落とした。

俺がそこにいたという事実。 けれど、俺の脳内には1バイトたりとも残っていない記憶。

俺が「強い」ことを、誰よりも早く予言してくれたババア。 無個性だと診断される前、俺が自分の才能を自覚して天狗になるずっと前から、ただそこに在るだけの俺を信じてくれていた人間。

胸の奥の、普段は触れることのない柔らかい部分が、チクリと痛んだ。 会ったこともない老婆の姿が、親父の言葉を通して、俺の中で初めて輪郭を結ぶ。それは豪快に笑うババアのようで、どこか温かい。

「仕事が忙しい、とか……適当に理由を作ってないで、もう少し早めに遊びに行けば良かったな……」

親父の言葉に、隠しきれない後悔の色が滲む。 それは粘着質な未練ではなく、乾いた砂のようにどうしようもない、諦めにも似た独白だった。

「ババアも、同じこと思ってそうだな」

「……うん、思ってると思うよ。光己さんって、ああ見えて結構繊細だから」

何処が、と言いてえとこだが、喉元まで出かかった憎まれ口を飲み込んだ。 自分の親だから、よくわかる。

普段はガミガミと煩くて、強引で、台風みたいに豪快なババアだ。だが、妙なところで一人で背負い込む。 今頃、二階のテラスの片隅で、海を見ながらうじうじとらしくもねえことを考えて、誰にも見せない涙を流しているのかもしれない。 あの強い母親が小さくなっている姿を想像すると、胸糞が悪くなるほど落ち着かない気分になった。

「親父、行かなくていいのか?」

俺は親指で下の階を指した。

「……こういうときは、一人でそっとしておいたほうがいいんだよ。悲しむ時間も、必要なんだ」

親父は静かに首を振った。その表情は、俺には理解できない大人の諦観に満ちていた。

「そういうもんか?」

「大人になればわかるさ」

「ふーん」

理解は出来なかった。 悲しいなら叫べばいいし、ムカつくなら暴れればいい。一人で抱え込んで、殻に閉じこもって何になる。感情なんてのは、爆破して発散させるためにあるんじゃねえのか。

だが、海風に吹かれる親父の横顔があまりにも穏やかで、そしてどうしようもなく寂しそうだったから、俺はそれ以上何も言えなかった。 親父なりのやり方なんだろう。それが夫婦ってやつなのかもしれない。

視線を前に戻すと、遠くに、海面から突き出た緑色の島影が見えてきた。

あれが、ババアの故郷か。 そして、これから俺たちが「サヨナラ」を言いに行く場所。

俺は風に髪を煽られながら、もう届くことのない「英国紳士風オールマイト」のことを考えていた。 ババアに会ったら話そうと思っていたネタだ。最高のヒーローの話。俺が目指す頂きの話。 土産話なんて、いくらでも用意できたはずだった。

次はどんな話ができたんだろう。 どんな武勇伝を持っていけば、あの母親と同じしゃがれた声で、豪快に笑ってくれたんだろう。 「やっぱりアンタは凄いね」って、赤ん坊の頃みたいに、また保証してくれただろうか。

島が近づくにつれて、俺の中の何かが終わり、そして何かが始まろうとしていた。 それはまだ名前のつかない、重たくて、鈍色をしていて、でも不思議と温かい感情だった。

ブォォォォォォォォォォン――。

不意に、フェリーが汽笛を鳴らした。

腹の底まで響くその低く長い音は、海鳥たちを驚かせ、そしてまるで誰かへの最期の別れの挨拶のように、何もない海の上をどこまでも、どこまでも響いていった。

5. 潮騒と再会、あるいは鏡像の涙

船尾に砕ける白波が、暗い海面に白い傷跡を残しては泡となって消えていく。 俺はその儚い泡沫を目で追いながら、胃の腑に残るうどんの温かさと、親父の言葉を反芻していた。

「光己さんを迎えに行こうか」

親父が静かに笑った。 それは、いつものような穏やかな陽だまりみてえな笑顔ではない。少し寂しそうで、それでも夜の海を優しく照らす月のような、静謐な笑みだった。俺は親父のそんな顔を見たことがなかった。 喉の奥に小骨が刺さったように言葉がつかえて、俺はただ、無言で頷くことしかできなかった。

親父がゆっくりと歩き出す。俺はその少し丸まった背中を追った。 鉄製の階段を降りるたび、カンカンと乾いた音が響き、船底から伝わるエンジンの重低音が足の裏を痺れさせる。その振動は、これから始まる非日常へのカウントダウンのようにも思えた。

厨房の奥にいたうどん屋の親父に軽く会釈をし、二階の客室フロアへ戻る。 親父は迷うことなく、船首にある展望エリアへと向かった。 ガラス張りのその場所は、進行方向の海が一望できる特等席だ。だが、今はたった一人の客しかいなかった。

ババアだ。

窓際の席に座り、身じろぎもせず、じっと漆黒の海を見つめている。 近づくと、その横顔が見えた。いつものように柳眉を逆立て、鬼の首を取ったように怒鳴り散らすあの面影はどこにもない。 目を赤く腫らし、化粧が少し崩れかけた顔で、ただ静かに、水平線の彼方に微かに滲む島影を見つめていた。その姿は、まるで魂の半分をどこかに置き忘れてきた抜け殻のように見えた。

「光己さん、行こうか」

親父が声をかけ、そっと手を差し出す。 ババアは驚いた様子もなく、ゆっくりと顔を上げた。まるで、こうして迎えに来ることを知っていたかのように。あるいは、何時間も前からずっと、この瞬間を待っていたかのように。

「……うん」

短く答え、ババアはその手を握り返して立ち上がった。 その手つき、その視線の交わし方。長年連れ添った夫婦だけが持つ、言葉のいらない阿吽の呼吸。 今の俺が入る隙間など、そこには一ミリもなかった。俺はただ、妙に落ち着いた気持ちで二人を見ていた。ああ、やっぱコイツらは夫婦なんだなと、子供ながらに妙に納得してしまったのだ。

その後、俺たちは下船口に並ぶ列には加わらず、人波が引くのを待つことにした。 親父は携帯を取り出し、どこかへ連絡を入れている。低い声で話す内容は聞き取れないが、相手はたぶん、これから会う親戚だろう。

ババアは窓ガラスに手をつき、近づいてくる島を食い入るように見つめていた。その瞳には、懐かしさと悲しみ、そして悔恨が複雑に入り混じっている。

「庭の裏手にね、大きな滝があるのよ」

ババアが独り言のように呟いた。俺に向けた言葉なのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。

「そこで採れる川魚が美味しくてね。井戸水もキンと冷えてて、甘いの。その水で炊いたお米が絶品で……おばあちゃんが炊いたあの白米以上の飯を、私は食べたことがないわ」

ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる思い出話。 いつものババアなら「さっさと動くよ! グズグズしない!」と急かす場面だ。こんな感傷的な昔話なんて、らしくねえ。 「柄にもねえな」という言葉が喉まで出かかったが、俺はそれを唾と一緒に飲み込んだ。 今の俺自身、柄にもなく親父たちの空気を読んで、黙って付き合っているのだ。人のことは言えねえ。

俺は、今にも決壊しそうなババアの張り詰めた横顔をじっと見ていた。親父は電話を終えると、何も言わずにババアの背中をゆっくりと撫でている。その手つきは、泣き止まない幼い子供をあやすように優しかった。

やがて船内が静かになり、最後尾の客の背中が見えた。

「さて、行こうか」

親父が促し、俺たちはゆっくりと動き出した。 同じように部屋の中で待機していた他の客たちも、俺たちの事情を察したのか、誰も急かそうとはしなかった。すれ違いざまに向けられる視線には、奇妙な連帯感のような温かさがあった。それは葬列を見送る人々の目に似ていた。

狭い通路を通り、タラップへと向かう。 後ろにいた上品そうな老婦人が、俺の背中に向かって声をかけた。

「ぼっちゃん、気をつけて。ゆっくりとね」

その声色が、ふと、あの電話越しのしゃがれた声を思い出させた。俺の胸の奥が、またチクリと痛む。 タラップを降り、コンクリートの地面を踏みしめる。 島の大地だ。 湿った風が、東京とは違う濃度の高い酸素と、磯の匂いを運んでくる。

ターミナルへ向かって歩き出したその時だった。

「光己お姉ちゃん!」

悲鳴にも似た叫び声と共に、視界の端から何かが飛び込んできた。 ターミナルの出口から、一人の女性が全力で走り寄ってくる。 俺は一瞬、我が目を疑った。

ババアだ。ババアがもう一人いる。

背格好も、顔立ちも、雰囲気さえも瓜二つ。まるで鏡の中から飛び出してきたドッペルゲンガーだ。唯一違うのは、少し長めの髪と、服装の趣味がやや地味なことくらいか。

「美里!」

ババアが叫び返し、駆け寄ってきたその女――妹の美里を強く抱きしめた。 二つの体が一つに重なる。 その瞬間、堰を切ったように、二人の喉から嗚咽が漏れた。

「お姉ちゃん……っ、おばあちゃんが……!」

「……遅くなって、ごめんね……っ、ごめんねぇ……!」

人目もはばからず、子供のように声を上げて泣きじゃくる二人。 俺は呆然と立ち尽くしていた。ここまで感情を剥き出しにして、激しく泣くババアを見たのは初めてだったからだ。 いつも強気で、何があっても折れない鉄のような女だと思っていた。それが今、妹の腕の中で崩れ落ち、ただの無力な娘に戻っている。 これが、肉親を失うということなのか。 その光景はあまりにも強烈で、俺は視線を逸らすことさえできなかった。

「勝己くん、行こうか」

親父が俺の肩を叩き、二人から少し離れるように促した。水入らずの時間を邪魔しちゃいけない、という配慮だろう。 俺たちが少し離れた場所にあるベンチの方へ移動すると、一人の男が近づいてきた。 日に焼けた肌に、大らかな笑顔を浮かべた大柄な男だ。アロハシャツのような派手なシャツを着ているが、不思議と嫌味がない。

「久しぶり、じゃなくて初めまして、がいいのかな? 僕はキミの叔母の旦那、武っていうんだ。よろしくね」

男は人懐っこい笑顔で、俺に大きな手を差し出した。その手は分厚く、マメだらけだった。

「今日、妻とは別々に迎えに来てるんだよ。……色々と、姉妹だけで話すことが多いと思ったからね」

そう言って、抱き合って泣き続けている双子の姉妹の方を見て、寂しそうに、けれど優しく目を細めた。

「アイツら、そっくりだな」

俺が呆れたように呟くと、武おじさんは声を上げて笑った。

「そりゃあ、双子だしね。個性も同じなんだよ。グリセリンを分泌して爆発させる、ちょっと物騒な個性さ」

「へー」

俺は改めて、泣きじゃくる二人を観察した。 顔の造作は確かに同じだ。だが、よく見ると雰囲気が違う。 ババアの妹――美里おばさんは髪が長く、全体的に線が柔らかい。泣き方もどこかおっとりしている。対してババアはショートヘアで、泣き顔さえもどこか険しく、激しい。 同じ顔、同じ個性を持って生まれても、育ち方や生き方でこうも変わるものなのか。 人間ってのは不思議なもんだな、と妙に感心していると、不意に視界が高くなった。

「うおっ!?」

俺の体がいとも簡単に宙に浮く。 気づけば、俺は武おじさんの肩の上に担ぎ上げられていた。肩車だ。

「あ、おい! おじさん、降ろせよ!」

俺は慌てておじさんの頭をペシペシと叩いた。ふざけんな、俺は何歳だと思ってるんだ。幼稚園児じゃねえんだぞ。

「行こうか、勝己くん。車はあっちだ」

「ガキ扱いすんな! 俺はもう小学生じゃねえんだぞ!」

「ははは、軽い軽い! さすが、いい筋肉をしてるねぇ」

俺が暴れて降りようとしても、おじさんの首は丸太のように太く、びくともしない。その腕力は並大抵のものではなかった。 抵抗を諦め、俺はふてくされて視線を上げた。

その瞬間、息を呑んだ。

高い視点から見渡す港の景色は、地上から見るそれとは別世界だった。 エメラルドグリーンに輝く海、白い砂浜、そして山の緑が鮮やかに目に飛び込んでくる。太陽の光が海面に反射し、キラキラと宝石のように煌めいている。 風が気持ちいい。潮の香りが、俺の鼻腔をくすぐり、肺の奥まで洗い流していくようだ。

「……チッ」

俺は悪態をつきながらも、その景色から目を離せなかった。 まあ、こういうのも悪くねえかもな。なんて思いながら、俺は大人しく運ばれることにした。

おじさんの車は、年季の入った四駆のSUVだった。 シートは日焼けして色褪せ、車内には埃っぽい匂いと、甘いココナッツのような芳香剤の匂いが混じっていた。 俺は後部座席に放り込まれ、窓を開けて頬杖をついた。風が髪をかき乱していく。 親父が助手席に乗り込み、おじさんがハンドルを握る。ババアたちはまだ話し込んでいるらしく、別の車で行くことになったようだ。

「武くん、この後どうするんだい?」

親父が尋ねると、おじさんはバックミラー越しに俺を見た。

「葬式までちょっと時間があるからね、少し島の外周を回って観光しようかと思うんだ。本当は娘の穂乃果を連れてきたかったんだけど……」

おじさんの表情が少し曇る。

「連れてくれば良かったのに」

「……それが、行きたくないってさ。ずっと裏の滝のところに引き籠もっているんだ。おばあちゃんっ子だったから、ショックが大きくてね」

おじさんは困ったように苦笑し、ハンドルを切った。車が大きく揺れる。

「……あ、そうだ。穂乃果は勝己くんと同い年だから、仲良くなれるかもね。あとで呼んできてよ」

同い年の女。 その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に反射的にあのピンク色の塊が浮かんだ。 女王様のように周りを振り回し、こちらの都合などお構いなしにマシンガントークを浴びせてくる、御影雛。 そして、その後ろをついて回る、無個性のデク。 あいつらの顔を思い出すだけで、胃液が逆流しそうな不快感がこみ上げてくる。

「……なんで俺が」

俺は露骨に嫌そうな声を出した。

「勝己くん、そんな顔しないで」

親父が慌ててフォローを入れる。 おじさんは運転しながらバックミラー越しに俺の表情を見て、ニヤリと笑った。

「あらら、勝己くん、女の子は苦手?」

からかうような、子供扱いするようなその響き。 俺の神経の導火線に火がついた。

「……ちょっとね。幼馴染の女が元気が良すぎて、さ」

「……あれが『元気がいい』ってレベルかよ。災害レベルだろ」

思わず本音が口をついて出る。顔が苦虫を噛み潰したように歪むのが自分でも分かった。

「……詳しい話を聞いてもいいかな?」

武おじさんの声が、少し真剣味を帯びる。ただの冷やかしではない、大人の男としての興味、あるいは心配を含んだ響きだった。

俺は深く溜息をついた。肺の中の空気をすべて入れ替えるように、重たく、長く。 確かに雛は「好き」だの「愛してる」だの、息をするように言ってくる。だが、その言葉の裏に隠れているのは、純粋な恋心なんかじゃない。 生きる場所を失った人間が、唯一の足場にしがみつくような必死さと、どこか悲痛なまでの打算が見え隠れして、俺の胸糞を悪くさせるのだ。 親父は助手席で、困ったような表情で俺の顔を伺っている。家庭の恥を話していいものか、それとも勝己のプライバシーを守るべきか、迷っているのだろう。その優柔不断な態度すら、今の俺には苛立ちの種にしかならない。

……別に、隠すもんでもねーよ。どうせ他人事だ。俺が悪いわけじゃねえ。

「……別に、どうってことねーよ」

俺は窓の外へ視線を逃がした。 車窓を流れる景色は、単調な緑色の壁となって後ろへ飛び去っていく。 鬱蒼と茂る木々の合間から、時折強烈な日差しが差し込み、俺の目を焼く。 奥歯をギリリと噛み締める。 脳裏にこびりついて離れない映像があった。 あの日、無理やり髪を切り刻まれ、不揃いな短髪で泣いていた雛の姿。 泥だらけになりながら、俺の背中を睨みつけるように追いかけてくる、あの執念に満ちた瞳。 そして、「サイドキックにしてやる」と言った瞬間の、あの凍りついたような表情。

そんな胸糞悪い家の事情を、会ったばかりの親戚にペラペラと喋るつもりはない。 同情されたいわけでも、理解されたいわけでもない。ただ、その重苦しい事実が、今の俺を鎖のように縛り付けていることだけは確かだ。

「……ただの腐れ縁だ。向こうが勝手に依存してきてるだけで、俺には関係ねぇ」

吐き捨てるように言った。自分自身に言い聞かせるように。 俺は悪くない。俺は被害者だ。あいつが勝手に俺を神輿に担ぎ上げているだけだ。 それ以上、言葉にする気にはなれなかった。口を開けば、もっとドロドロとした本音が漏れ出しそうで怖かった。

俺の頑なな拒絶を察したのか、武おじさんは「そうか」と短く頷いた。 そして、バックミラー越しに俺を見た。 その目は、非難するでもなく、かといって安易に肯定するでもなく、少しだけ哀れむように細められていた。 まるで、迷子になった子供を見るような目だ。 それが無性に腹立たしい。何も知らないくせに、わかったような顔をするな。

「なら、尚更だ。勝己くんの世界には今、その『一方的な関係』しかない。だから余計に、女の子という生き物が煩わしく見えているのかもしれないよ」

「……」

図星を突かれたような不快感に、俺は眉間の皺を深くした。 一方的な関係。確かにそうだ。俺と雛の間には、対等な会話も、心の通い合いもない。あるのは「主従」という名の依存関係だけだ。

「もっと普通の、対等な関係の友達ができれば、キミのその肩の力も抜けると思うんだ。……例えば、うちの穂乃果みたいにね」

おじさんはハンドルを切りながら、優しく言った。 カーブに合わせて車体が大きく傾き、俺の体がドアに押し付けられる。

「あの子、ちょっと内気でね。ずっと一人で静かにしているような子なんだ。だから、勝己くんみたいな元気な男の子が話しかけてくれたら、きっと良い刺激になると思うんだよ」

内気で、静か。 その言葉から連想されるのは、教室の隅で本を読んでいるような、地味で暗い女の姿だ。 雛のような「動」の煩わしさとはまた違う、「静」の面倒臭さを予感させる。 どうせ、話しかけてもおどおどして、会話が続かないタイプだろう。 あるいは、俺のこの威圧的な態度に怯えて、泣き出すかもしれない。 どっちにしろ、関わるだけ時間の無駄だ。

「……俺はガキの相手をしに来たんじゃねえよ」

「ははは、そう言わずに。同い年なんだから、気は合うはずさ」

おじさんは呑気に笑っている。 この人は、俺の中に渦巻くどす黒い感情なんて、想像もしていないのだろう。 車がガタゴトと揺れながら、木々のトンネルを抜けた。

一気に視界が開ける。

「さあ、着いたよ。ここが光己さんの生家だ」

目の前に現れたのは、時が止まったような古い日本家屋だった。 黒光りする瓦屋根、太い梁、そして風雪に耐えてきた重厚な木の壁。 庭には手入れの行き届いた植木が並び、その奥には、人を拒むように深く、そしてどこか神秘的な森が広がっている。 セミの声が、耳をつんざくような音量で降り注いでいた。 湿気を含んだ風が、森の奥から冷気を運んでくる。

「……でけぇな」

素直な感想が漏れた。 東京の狭い家とは違う、土地そのものが持つ歴史の重みのようなものを感じた。 まるで家全体が一つの生き物のように、静かに呼吸しているような気配すらある。

「でしょう? 裏山も全部うちの敷地だからね。探検し甲斐があるよ」

車が砂利を踏みしめて停止する。 俺は釈然としない気持ちのまま、ドアを開けて車を降りた。 地面の土の匂いが、アスファルトとは違う野性的な強さで鼻腔を刺激する。

友達を作れ、だ? そんな簡単にいくなら苦労はしねえよ。 俺に必要なのは友達なんかじゃない。もっと絶対的な「強さ」と、誰にも邪魔されない「頂点」だ。馴れ合いなんて、弱者のすることだ。

地面にある小石を、つま先で思い切り蹴り飛ばした。 石は乾いた音を立てて転がり、縁の下の暗闇へと吸い込まれていった。

だが、この時の俺はまだ知らなかった。 この島の森の奥、あの暗闇の向こう側で待っている出会いが、俺の中の凝り固まった何かを、少しだけ変えることになるなんて。 俺の「絶対」を揺るがすような、鏡写しの存在との出会いが、すぐそこまで迫っていた。

6. 緑の檻、沈黙の波紋

車が止まった場所は、島を見下ろす小高い丘の上に建つ一軒家だった。

エンジンを切ると、途端に鼓膜を圧迫するような蝉時雨が襲ってくる。だが、この高台には海からの風が吹き抜けていて、下界の湿った熱気よりは幾分かマシに感じられた。

見晴らしは抜群だ。眼下には集落の屋根瓦が黒く光り、その先には夏の太陽を乱反射させる海がどこまでも広がっている。

「それじゃ、穂乃果はあっちの裏の森にいるから、よろしくね」

車のトランクから荷物を出しながら、武おじさんが俺の肩をポンと叩いた。

その手つきは軽いが、有無を言わせない大人の圧力がある。

俺は少し鼻を鳴らした。上手く丸め込まれた気はするが、これから始まるであろう親戚同士の湿っぽい挨拶回りや、線香臭い空気に付き合うよりはずっといい。

「……わかったよ。行ってくる」

俺は短く降参の白旗を上げると、ポケットに手を突っ込み、言われた通り母屋の裏手へと回った。

裏庭の先には、鬱蒼とした森が口を開けていた。

一歩踏み込むと、腐葉土の湿った匂いと、濃密な緑の香りが鼻腔を満たす。足元はぬかるんでいて歩きにくい。スニーカーの底が泥を噛む感触を確かめながら、俺は道なき道を進んだ。

だが、景色は悪くなかった。

木々の隙間から差し込む光が、レースのカーテンのように揺れている。途中で見つけた小さな川のせせらぎが、蝉の声に混じって涼やかに響いていた。

その川に沿って奥へと進むと、突然、視界が開けた。

「……お」

そこには、落差のある大きな滝があった。

岩肌を滑り落ちる白い水流が、深い青色を湛えた滝壺へと吸い込まれていく。飛沫が霧のように舞い上がり、辺り一面をひんやりとした冷気で包み込んでいた。

そして、その滝壺のほとりにある苔むした岩の上に、彼女はいた。

喪服なのだろう。漆黒のワンピースを着た少女が、膝を抱えて座り込んでいる。

その姿を見つけた瞬間、俺の足が止まった。

黒い服が、彼女の異質なまでの「色彩」を際立たせていたからだ。

腰まで届く長い髪は、日本人離れしたプラチナブロンド。木漏れ日を浴びて、まるで発光しているかのように白銀に輝いている。

風が吹き、その銀糸のような髪がさらりと靡く。

目元には、乾いた涙の痕が白く残っていた。

森の静寂もあってか、どこか若かりし頃のババア――俺の母親の面影が残るその横顔が、悔しいくらいに綺麗に見えた。

俺は息を潜めて近づいたが、砂利を踏む音に気づいたのか、彼女がゆっくりと顔を上げた。

「……誰?」

不安そうに揺れるその瞳。

俺と同じ、鮮血のような赤色。だが、俺のようなギラついた攻撃性はなく、透き通るような宝石の赤だ。そして、ババアよりも長く、人形のように密度の高い睫毛がその瞳を縁取っている。

髪の色は父親譲りで、顔立ちと目の色は母親――つまり俺の家系の遺伝子か。

まるで鏡を見ているようで、でも決定的に違う。美しく磨き上げられた鏡像。

「……あー、俺は勝己。爆豪勝己、お前の従兄弟だ」

俺は努めて普段どおりの声を出し、髪を掻き上げた。

彼女は、大きな赤い瞳をパチクリとさせ、俺の顔と髪を交互に見た。金髪に赤目。自分と似たパーツを持つ俺を見て、警戒を解いたようだ。

「……あ、おばあちゃんがよくぬいぐるみを作ってた、あの子ね」

彼女の表情がふわりと緩んだ。

「私の名前は穂乃果。……初めまして」

そう言って、静かに微笑んだ。その笑顔は控えめで、どこか儚げだ。中身はおっとりとしたおばさん似ってところか。

俺は「おう」と短く返し、彼女の隣の岩に腰を下ろした。

湿った岩の冷たさが尻に伝わる。俺も同じように、青く澄んだ滝壺を覗き込んだ。

「……で、何してんだ?」

こんな湿っぽい場所で、一人でじっとして何が楽しいんだか。

俺の問いに、穂乃果は視線を水面に戻し、ぼんやりと答えた。

「……川の水が冷たいから、涼んでたの」

は? たったそれだけかよ。

「……それだけ? 暇すぎて疲れねーのか?」

呆れて思わずため息が出た。ゲームをするわけでもなく、漫画を読むわけでもなく、ただ座ってるだけ。生産性のかけらもねえ。

俺の言葉にトゲがあったのか、穂乃果がムッとしたように唇を尖らせた。

「……それだけって、水が気持ちいいのよ。都会っ子にはわからないんでしょうけど……」

ムキになるように眉を吊り上げると、彼女は履いていたサンダルを脱ぎ捨て、白い素足を滝壺の水面に突っ込んだ。

水飛沫が上がり、波紋が広がる。

「……つっても、ただ足を突っ込んでるだけだろ。泳がねーのか?」

俺もズボンの裾を捲り上げ、スニーカーを脱いで足を浸した。

冷たい。痛いほどに冷えた水が、火照った体温を一気に奪っていく。

「……水が深いから、子供は入っちゃいけないってお父さんが」

「……言いつけ守ってんのかよ。それじゃ、何もしてねーのと同じだろ」

「してるわよ! ここの景色が綺麗だから、見てたの!」

彼女が声を荒げ、俺を睨みつけてきた。

その赤い瞳には、さっきまでの儚さとは違う、強い光が宿っていた。

へぇ、意外と気が強いじゃねえか。ただのお人形さんかと思ったが、ちゃんと感情がある。負けず嫌いなところは、俺と同じ血が流れてる証拠だ。

「……いつも見てるだろ、こんな景色。飽きねーんか?」

俺はニヤリと笑い、さらに煽った。

「……飽き、ないわよ!」

穂乃果は言い返そうとして、一瞬言葉を詰まらせた。

視線が泳ぎ、また悲しげに水面へと落ちる。

「……飽きない、から…」

その強がりを見て、俺は察した。

きっと、この女は心の整理がしたくてここにいるんだ。悲しみに暮れる自分を、この静寂の中に沈めておきたいんだろう。

親父なら、ここで「そうだね、綺麗だね」と共感して、そっとしておくだろう。

だが、生憎俺は親父じゃねえ。湿っぽい空気の中でウジウジするのは性に合わねえんだ。

かと言って、「元気出せよ」なんて安っぽい言葉で励ますのも、今のコイツの悲しみを土足で踏み荒らすようで野暮だ。

……じゃあ、どうすりゃいい?

俺はポケットからスマホを取り出した。圏外ギリギリのアンテナ表示。

俺の指が画面をスワイプし、ある画像を表示させる。

「ど田舎のヤツはこんなの知らねーだろ」

俺の、いつものパターンだ。自分が知っている「スゲーもの」を見せつけて、マウントを取る。それが俺なりのコミュニケーションであり、励まし方だ。

画面に映し出されたのは、今日フェリー乗り場のカフェで見かけた、あの馬鹿高い「レインボークリームソーダ」の画像だ。実際に写真は撮ってねえから、ネットで適当に拾った似たような画像だが。

「……なにこれ」

穂乃果が覗き込んでくる。

「都会じゃ今、こういうのが流行ってんだよ。炭酸水がグラデーションになってて、上にデカいアイスが乗ってるやつ」

毒々しい青やピンクのシロップに、白いアイスクリーム。キラキラとした加工がされたその画像は、この静かな森の中では異質なほどに人工的で、鮮やかだった。

「……凄く、綺麗!」

さっきまでの不機嫌そうな顔が嘘みてえに、穂乃果が目を輝かせた。

赤い瞳が、画面の光を反射してキラキラと瞬く。

「飲んだことあるの? 美味しいの?」

食い気味に聞いてくるその反応に、俺は少し得意げな気持ちになった。

……なんだよ、チョロいな。やれば出来るじゃねえか。その顔の方が、ずっとマシだ。

「おう、味もまあまあイケるぜ。シュワッとしててよ」

飲んだことなんて一度もねえけどな。砂糖水だと思ってバカにしてたし。

でも、今はそんなことどうでもいい。

「だろ? 着いてこい、材料さえあればこんなの簡単に作れっぞ」

「え、作れるの? これを?」

「余裕だろ。かき氷のシロップと炭酸水、あとアイスがありゃあ再現可能だ。俺にかかりゃこんなもん、お茶の子さいさいだわ」

俺は大口を叩きながら立ち上がり、ズボンの泥を払った。

そして、岩の上に座る穂乃果に向かって、右手を差し出した。

「行くぞ。こんな湿気た場所にいつまでもいたら、カビが生えるぞ」

穂乃果は一瞬、きょとんとして俺の顔を見た。

それから、俺の手と、スマホの画面を交互に見比べて――。

「……えぇ!」

照れくさそうに、長いプラチナブロンドの髪を耳にかけながら、俺の手を握った。

その手はひんやりと冷たくて、でも力強かった。

立ち上がった彼女は、やっぱり俺より少し背が高くて、黒いワンピースが風にふわりと揺れた。

俺は彼女の手を引いて、緑のトンネルを歩き出した。

森の出口から差し込む光が、俺たちの影を長く伸ばしていた。

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